これまでも、歴史系の記事をちょいちょい書いてきましたが、実は私、日本史が好きなんです。なので、5〜7世紀を中心とした、超マニアックな歴史ブログを作るのが夢だったのですが、なかなか手が回らなくって・・・
そんな訳で、歴史系もこちらに書くようにします。とはいえ、マニア系ではなく、静岡に縁のある人物や事柄に関する軽い内容です ^^
第一回目は、日本史上、最も有名な奇襲戦といわれる桶狭間の合戦。実は、どこで合戦が行われ、どの辺りで今川義元公が討たれたのか、ハッキリとしていません。有名な戦なのに意外でしょ?
現在、桶狭間の古戦場といわれる場所は二ヶ所あります。
ひとつは、愛知県豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」。(写真右)
もうひとつは愛知県名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」です。
私は小さな頃、といっても中学生の頃からですが、この桶狭間合戦の結末が「なぜ?」という思いで、いつか実際にその地を訪ねたいと思っていました。昨年、その念願がかない、桶狭間の地を訪ねる事ができました。先ず訪れたのは、桶狭間古戦場伝説地です。
愛知県豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」は国指定の史跡であり、こじんまりとした公園として整備されています。ここには、今川義元公を偲び明治時代に建てられたお墓もあります。
本当に偶然なのですが、私が写真を撮ろうといていると、地元の方が義元公のお墓のお手入れに訪れてくれました。地元有志で義元公の顕彰会をつくり、お墓のお手入れをしているとの事。静岡に住むものとして、「なんだか申し訳ない、でも、ありがたい・・・」という気持ちになりました。
静岡では今川家、今川義元公の評価が不当に低すぎる。
無論、江戸期はそうでしたでしょう。神君家康公が人質となっていた今川家の事を、誉める訳にはいかないのは、よく分かります。そりゃそうですよね。
しかし、現代においては、今川という戦国期の駿河の名家を、キチンと顕彰すべきではないかと思っています。
静岡には小和田哲夫氏というまたとない方が縁者としていらっしゃるのですから、市として、県としてもっと積極的に取り組むべきではないかと思います。
実際、義元公のお墓を明治時代からお世話してくれている豊明市の方々と、静岡市の交流なども全くないようです。また、私にしろ、ここに伺うまで全く知りませんでしたし・・・。
こうした例は他のケースでもあり、最近、「歴史ベースの土地の文化を軽視しているのではないか・・・」などと、いろいろ考えさせられています。
毎年、桶狭間合戦のあった6月に、この古戦場伝説地に建つ高徳院ご住職を招き墓前祭りが行われています。
右のポスターは、古戦場まつりのご案内。毎年、6月の第一日曜・土曜に開催されるそうで、
(1)桶狭間の戦いの戦死者を弔う「戦人塚供養祭」。
(2)桶狭間古戦場伝説地に建つ義元公のお墓にて行われる「義元公墓前祭」。
(3)高徳院内にある義元公の仏式のお墓の前で「義元公霊前祭」
が行われています。
これだけお祭りしていただいているのに、静岡市側からの関係者が誰も参列していない・・・ってのは、やはり、つれない感じがしちゃいますね。
さて、下の写真が、「桶狭間古戦場伝説地」前の高徳院、真言宗のお寺。立派な山門です。
こちらの境内には、義元公本陣の碑、義元公の仏式のお墓、義元公の亡霊を鎮めた、幽霊(お化け)地蔵などがあります。しかし、高徳院を訪れたならぜひ見学いただきたいのが、ご本堂裏の斜面です。おそらく、当時の桶狭間の地形を伝える唯一の場所です。必見です。
ちなみに、なぜ私が桶狭間合戦の結末、つまり今川義元が織田方に討たれてしまったということに納得できないかというと、地図で見る限り、義元の軍勢の後ろには沓掛城、前方には大高城、鳴海城という今川方の城があり、周辺の織田方の城、砦ににらみを効かせています。
桶狭間の戦いの作戦域は、イメージするよりもかなり狭いエリア。局地戦と言っていい、限定的な範囲内で行われています。今川軍が攻め込んだ尾張は織田の領国ではありますが、桶狭間の地は沓掛城・大高城・鳴海城といった、今川が尾張に打ち込んだ楔(くさび)に囲まれた、比較的、周囲に目が届きやすい土地なのです。
それに、自軍の大将が進軍中なのですから、当然、これらの城から偵察隊が出ているはずです。敵国の中なのですから、それを怠るほど油断しているはずもないですし、この時代の戦いなれた軍勢が、偵察を忘れるなんてことも考えにくい。それなのに、信長の軍勢を見落としている・・・
しかも信長が義元に向けて進発した中島砦は、今川方の鳴海城から5百メートルしか離れていないのです。そこから2千〜2千5百の軍勢が出撃するのを見逃すはずがない・・・って、ずっと思っていました。っていうか、中島砦に信長がいるって気づいていなかったのだろうか?、そんな事ってあるだろうか??、もしそうだとしたら、、、討たれても仕方ないかなぁ。
ただ、現地に来て納得せざるを得なかったのは、地図で見るとわずかな距離の範囲ですが、ここは、かなりアップダウンのある地形であり、視界の見通しは限られていたはず。おまけにひどい雷雨がこの地を襲ったということですから、大きな物音がしてもかき消されてしまったでしょう。
上の写真が、桶狭間合戦の戦場の一部と推定されている、高徳院本堂裏の傾斜地です。ある程度整備されている現代でもこの状態です。当時はもっと雑木が生い茂っていたはずですし、林の周りには雑草も茂っていたはず。これでは大軍を展開させるのは不可能だったでしょう。となると、桶狭間山の縁をグルッと廻るように、細長い縦列で部隊を配置せざるを得ない。
そこへ織田軍が偶然に正面から突撃する形になったら、今川軍は身動きのできない大混乱に陥り、進むことも引くことも出来ない状態となってしまう。結局、この混乱地帯から抜け出し、平地で陣形を整えようとしたが、その前に義元公が討たれてしまった・・・ということなのでしょう。
歴史に「もし・・・」は無い訳ですが、もし、太原崇孚雪斎が生きていたら、こんな場所に軍を留める事はなかったでしょう。また更には、今川方の偵察隊が信長の動きを見逃さず、鳴海城の守将・岡部元信が兵を率いて織田の背後を襲っていたら・・・。全滅していたのは間違いなく織田軍、討たれたのは織田信長だったはず。岡部元信はそれほどの猛将なのです。
岡部氏は藤枝市岡部町を本拠とした今川家譜代の重臣。今川家の家督争いの内乱、「花倉の乱」では義元を助け厚い信頼を得ます。
後年、岡部元信は最後まで徳川家康に逆らい、結局、駿河侵攻を狙う武田信玄側に身を寄せます。そして、高天神城(掛川市)の第二次攻防で徳川方に突撃、戦死します。この人はきっと、義元公を死なせてしまったという悔いに、生涯さいなまれた武将だったのではないでしょうか。
桶狭間の合戦時、岡部元信が守っていた鳴海城と同じく、今川方の最前線・大高城を守っていたのは松平元康(徳川家康)でした。今川家の重臣である岡部元信にとって、人質だった家康の下に付くなど、「決してありえない!」事だったのでしょう。
というよりも、今川義元が討たれると、さっさと岡崎に帰り今川から独立。敵である織田とも同盟を結んだ元康(家康)を、「おのれ元康。恩知らずの裏切り者め!」と、怒り恨んでいたのではないでしょうか。
この岡部元信の兄、岡部正綱も良将として知られていました。武田家滅亡後は徳川家康に仕え、甲斐平定に活躍します。その功により、正綱の孫の宣勝が和泉国岸和田6万石の大名となり、岡部家は岸和田藩主として明治まで続きます。
ちなみに、全国的に有名な岸和田の『だんじり祭り』は、3代目藩主の岡部長泰が行った五穀豊穣を祈願するお祭が起源とされています。
さてさて、長くなりましたが、次回は、
『桶狭間合戦の古戦場を訪ねて(2)』 へと続くはず・・・です。
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